2012年05月16日

ブータン熱~ブータン旅行記その1

2012年5月16日(水)

去年,国王夫妻が来日されて,ブータンへの関心がとても高まってきたはず。
世間と同様,私のなかでも。

ああ,ブータン,行きてえな。

おりしも,カード会社から届く無料雑誌の特集もブータンであった。

1988年であるからもはや四半世紀前であるが,一度ブータンに行ったことがある。
そのころと比べれば,アマン系の高級リゾートも今は国内5か所にあるらしいし,バンコク経由の空路で入れるらしいし,ずいぶん旅行事情はかわったと見える。
しかし,人々の心の根本的なとこはかわってないのかも。
ほぼ日で連載されてた,ブータンで公務員を務めていた御手洗瑞子さんという方と糸井重里の対談を読んでて,そう感じた。

行きたさあまりに,西遊旅行のHPを見てみた。
ツアー,けっこう,手軽な値段になってるじゃないの。

8月から9月はいろいろすでに予定が入ってて,だめだけど,今年度の冬から春にかけて,なんとか時間を確保して訪問したい。

さて,24年前のブータン旅行のとき,旅行記を書いた。題して「旅にしあれば」。
ブログなどというメディアがなかった当時,旅行記を書いては印刷し,親しい人に配っていたのだ。
ブログという舞台がいまはあるので,それを少しずつ掲載していきたい。

では,「旅にしあれば~インド・ネパール・ブータン編~」の始まり始まり。


はじめに
 1988年3月23日から4月3日まで、インド・ネパール・ブータンを巡る旅をした。元々,大学で仏教を教えるO先生が企画されたツアーに便乗させてもらえたわけだ。。肝腎のO先生は、残念なことに都合で参加できなくなってしまわれたのだが。日本からの参加者はツアーコンダクターのKさんを含めて18人、前からの知り合いは数名で後は初対面の方々だった。
 参加者は医者あり坊主ありカウンセラーあり、と、全く心配要らずの旅行だと言われた。
 旅の間、記録を付け続けていたので、それを元に旅日記をまとめてみた。後から思い出して付け足した部分と、当時現地で書いたものとは、ヴィヴィッドさにおいて違いがあるかもしれない。ともかくこのどこまでも私的な記録にしばしお付き合い願いたい。
   
1988年3月23日 水曜
 午前10時。京都駅前空港行バス停留所にて、S夫妻と待ち合わせ。3人とも大体同じような大きさのスーツケースをガラゴロガロゴロ押している。大阪空港に向かう途中、千里中央付近を通り、非常に懐かしい気がした。空港には11時頃、かなり早めに到着。ツアー一行の集合場所へ行く。知らない人には何だか警戒心を抱いてしまう。コンダクターのKさんもどことなく商売人風という印象。帰りのお土産を行き掛けに既に注文してしまうというシステムの説明などをするので余計そう思える。
 スーツケースの検査等を経て搭乗。久し振りの飛行機に興奮する。隣の席は海外初めて、飛行機初めてのTさんである。彼女は前夜電話してきたとき、遠足前の小学生みたいな気分とおっしゃった。旅行準備で夜遅くなり余り寝ていなかったから飛行機の中で睡眠を補充しようと思っていたのだが、映画(どうやら「ハリーとヘンダーソン一家」というやつらしかった)を丸々みてしまったりして殆ど寝なかった。機内食が、あのアエロフロートのそれに比べて段違いにうまいのに驚く。2回の機内食ともしっかり何も残さず食べた。メンバーの大半は残しているみたいだったが。
 バンコクでのトランジットを経て現地時間8時すぎ、カルカッタ着。日本時間だともう12時近い深夜であるが、宵の口やと思えば不思議なもので頑張れる。というよりも降り立ったカルカッタは最初から強烈であった。まず、暑い。そして出国に相当手間取る。コンダクター氏の袖の下が効いたのか否か、とにかく出国。インド人ガイドのサニーさんが待っている。コンダクターKさんの説明によると、「何かと話題のシーク教徒で、変なガイジン」とのこと。日本語、英語ともに達者である。これも長く待たされて、スーツケースを手にした後、空港の外に出ると、待っていたのがスーツケースを奪ってバスまで運んでいこうとする若者たちとの戦い。これはやばいのでは、と思うが、ついスーツケースの手を離してしまい、しっかりチップを要求され、押し切られて1ドル渡してしまった。後からサニーさんに「何もあげないでください」と言われたけど、時既に遅し。
 ホテルは空港からバスで5分程のエアポートホテル。ロビーでサニーさんの説明を受ける。絵葉書2枚と2ルピーの入った封筒を貰う。葉書はとにかく、日本に無事着いたよと知らせるためのもので、内1枚には既に切手が貼ってあるという心憎さ。更に「皆さんはまだルピーお持ちじゃないでしょうから、明日の“枕ぜに”として2ルピー入れておきました」枕ぜにって一体何だろ。ゼロからのスタートでの取っ掛かりみたいなもんかしらと、枕詞からの類推で適当に納得して、それにしても粋な日本語知ってはるわと感心して、部屋へ行く。後で聞くと“枕ぜに”とは、英語のpillow tipの翻訳で、朝、枕の下に入れておくチップのことであった。このツアーでは独身女性3人が常に同じ部屋に泊まることになり、第1日の本日は、スイートルーム。豪華である。カルカッタは船の重油の匂いがした。

1988年3月24日 木曜
 カルカッタ市内を見学する。熱気と喧噪の町。どこから涌いてきたのか、表通りに路地裏に人があふれている。バスの車窓から見える掘っ立て小屋の露店商はスイカを売り、所在無げな男たちはしゃがんだ姿勢で黒い視線を向ける。ああなんて、食い入るような目だ。町中がメンチ切っている。子供は日本人と見るとよって来て、手を出す。終始悲しげな表情を浮かべて、彼らはもう職業人だ。また、シバ神の妻である女神カリの寺院での事だが、ひとりの子供が私の手を取り、露店の商品買えと言う。“I don't need it."と言うと、“Not for me, for Kari"と。カリという神の為に、買え、あるいは金をくれと言うのだ。まだ4つか5つの子供が、なんとまあ高級なレトリックを使うことか。形式を踏んでいるにせよ。その形式は生きた形式だ。
 インドが溢れて疲れた。でも昼飯食べたら元気回復。Airport Hotelの食事は朝も昼もうまい。tour on dietの未来は既に暗い。カリー各種、ナン、エビセンベイを揚げたようなもの、トースト、干し肉、ジャムなどなど。バターのうまさに感動する。スクランブルエッグの中に落とすとじわーっと溶けてほのかに甘い。コーヒーだけはバツ。ネスカフェであった。
 体中の温度が著しく上昇してしまったカルカッタを後に、カトマンズに着いたら一遍にcool downした。インドと随分違う。なんというか、空気が穏やかなんである。カルカッタ空港ではスーツケースの攻防、ホテルのフロントマンもひとくせありそうで油断がならない。どこにいても負けるまい、見透かされるまいと、だまされるまいと用心し、町のものもらいや子供には悲惨さに感情を動かされないようにガードする。カリーの寺院での子山羊のいけにえの儀式も、首を落とされる寸前の子山羊が幼児そっくりの声を上げるのにも心動かされまいとし、あくまで、“物”として見た。でもそういうガードって実は随分疲れるものなのだ。カトマンズに着いたらそういう一切と切れた。バスからホテル(Sunrise Hotel)までの裏道はまるで日本の温泉街。ネパールは45ばかりの民族の複合体ということで、中には我々の目に親しい特徴を有する人々がいて、尚のこと親和性を感じるのだろう。インドに比べて町全体がshyである。明日はどんな顔を見せてくれるか。
 追記。ネパールの夕食もおいしかった。ホテル近くのレストラン Kabab Cornerにて。セロリ・にんじんの入ったドロリとしたスープ、鶏のカリー、バターライス、ほうれん草のクリームソース、ナンなど。
 初級ネパール語講座:ナマステ=こんにちは、ダネヤバール=ありがとう。





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Posted by ボブ・マリ at 17:26│Comments(0)
 
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